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「阪急電車」 有川浩著
いくつもの小さなドラマが紡がれていく。
この世の中は無数のドラマが紡がれてできているのだ。
そして人は皆、等しく主人公であり端役でもある。
シナリオはない。
だからこの刹那、ドラマの展開がどうなるのか誰も知らない。
こういう何でもない事をあらためて考えて不思議な気持ちになる。
まるで奇天烈なパラドクスに向き合ったようだ。
だけどこの不思議感は決して嫌なものではない。
きっと著者の人を見る目が温かいからだろう。
電車の中で人の迷惑を顧みずやかましいおばちゃん達に、
女性に暴力をふるいあげく女性に捨てられる下らん男にさえも、
「お前達もドラマの主人公だ、頑張れ」とエールを送りたくなる。
「フィッシュ・オン」 開高健著
昭和49年発行。
今さらながら、どうしてもっと早く開高健を手にしなかったのかと悔やむ。
いや、開高健を読まなかったわけではなく、
「オーパ」やら何やらのいわゆるこの手の本を、という意味でだ。
存在を知らなかったわけではない。
ただただ「釣り」は“するもの”であって“読むもの”ではない、
という私の依怙地で勝手な思い込みが開高を手にすることを妨げていた。
ところが読み終えてどうだ?
告白しよう。
私はツンドラの荒野に突き刺さる雨に濡れそぼちながらも川の流れに目を凝らし、
白夜の河原でキングサーモンを待ち焦がれていたし、
或いは早朝の北欧の白い靄の沸き立つ川で時合の訪れるのを今や遅しと待っていた。
最初のページをめくった途端、既に私はそこにいた。
身を切る水の冷たさを指に感じ、
深く暗い森の深夜にふくろうの声を聞き、
折れんばかりに竿をしならせ力の限りに抵抗をみせる魚の生命を掌に感じた。
私は打ちひしがれ、焦らされ、うっとりとし、凍え、人恋しくて渇き、
不安に膝を抱え、解き放たれ、怒り、笑い、ことごとく翻弄されていた。
そして時々、私は文字どおり本の上に顔を伏せ、
思い切り本の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
何故かそうでもしなければこのやるせなさを鎮められないように思ったのだ。
この本は長い間、書店の倉庫の棚に眠っていたものか、
古い紙の匂いとも紙魚の匂いともつかない懐かしい匂いに包まれていて、
これが読みつつ浮かれ発熱し火照った私の心を鎮めたのかもしれない。
「部屋の中にいて地図や写真や本を眺めつつ戸外の川のことをあれこれと想像をして
時間をすごす人のことを“アームチェア・フィッシャーマンというらしい”
(「フィッシュ・オン」本文より)
「吉里吉里人」 井上ひさし著
全834頁。
とにかく分厚い本だから書棚と向き合うたび目に止まる。
一度は読み返したいと思っていたのだが何しろこの迫力。
そしてどうしても手を伸ばしかけて躊躇してしまうのは、
若かりし頃に初めてこの本を読んだ時の印象があまりよろしくない。
面白く読んだ記憶がないのだ。
それでもその頃から四半世紀ほど経った今、
読み返してみて我ながら多少は成長のあとが窺える。
国、農業、医療、経済等々について時に大きく頷きながら、
或いは時に首を傾げながら、
はたまた別の状況下では微苦笑、哄笑、を漏らし、
更には主人公のあまりの愚かさに嘲笑を浴びせ・・・
だがやっとの思いで読み終えた読後感はやはり「疲れた」。
加えて言うなら食べ過ぎ飲み過ぎの後の満腹感を通り越して「胸焼け」。
今夜は「中外胃腸薬」を飲んで寝るか?
そうそう、忘れてた。
この度読み返して初めて知ったのだが、
この本の装填は安野光雅だったんだなぁ。
そう言われれば正しく!
本の内容よりも装填の方が気に入った(^^v
「やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる」 三田誠広著
久しぶりにとても充実した読後感に浸っている。
忘れていたがこれも何度か読み返した小説なので、
ストーリーの流れはわかっている。
だけど面白い小説はなかなか飽きることはない。
「僕って何」で芥川賞を受賞して以来三田誠広の作品は何冊か読んだが、
氏の作品の中で私にとって最もわかりやすく楽しめた一冊。
「だってそうじゃないか?結果が分かっているなら、ゲームをやる必要なんかない。
実力に開きがあっても、楕円形のボールがうまいぐあいに転がり、
拾いもののトライチャンスが生れるかもしれない。
そんな一瞬を期待して、ノーサイド・ホイッスル(試合終了の笛)が鳴るまで、
僕らは闘いをやめない」
本文より。
私にも流れているのか停滞しているのかもわからないほど、
密度の濃い凝縮された時間の中で生きていた時代があった。
白け世代と呼ばれたが、そう見えたのならそれはポーズだ。
いつも満たされなくて飢えて渇いていた。
そしていつも強烈に漠然としてわからない何かを求めていた。
みすぼらしい野良犬のような若造だったけど、
今あの頃を振り返ってみれば、
その生活はキラキラしていた。
「赤ひげ診療譚」 山本周五郎著
HPの「Prologue」の「読書について」の中で山手樹一郎の「桃太郎侍」を、
「娯楽小説ではあるが、大衆文学としての完成度の高さは比類のないものだ、
と自己中心的な欲目をもって声高に言っておきたい」と書いた。
「桃太郎侍」は私にとって非常に面白い小説でこれを訂正しようとは思わないが、
実はそれとは別次元で山本周五郎の作品の数々を私は愛している。
優しく、強く、時に厳しく、或いは時にウイットに富んだ物語は、
時代小説を読みながらも現代の日常の機微をまざまざと感じさせる。
これほどに「粋」という言葉が似合う作家を私は他に知らない。
「氏の作品の完成度の高さは比類のないものだ。
これが自己中心的な欲目でないことは周知の事実だ」
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